不滅性過去と不滅性廃人

 さて、昨日の記事に関して。論旨をめちゃくちゃにしてしまわないためにあのような展開を余儀なくされたがいくつか注意しておきたいポイントがある。
 ゲーム内でのロイヤリティの確保のみに血道を上げたプレーヤーは世界が終焉を迎えた場合に、全てを失ってしまい過去の栄光にすがるしか道が無くなる、と書いたがそれは正確ではない。彼らは例え自らが依って立っている世界が崩壊したとしてもまた次の世界を見つける事が出来る。また、私が昨日挙げたのは『優良データ収集』→『自慢大会』というようなパターンを極端に辿っている例であり、廃人の中にはそのオンラインゲームだけに固執はしておらず、興味が湧くオンラインゲームを見つけては『スタートダッシュ』と称される行為を行い、新たな世界でのロイヤリティの確保に努めようというものもいる。一般プレーヤーにせよ廃人にせよ、昨日あげたようなどちらかに偏っているわけではなく、当然どちらかの成分が色濃いだけの、どちらの特性も持ち合わせているプレーヤーが実際は世界の大多数を占めているといっていいのだ。過激な論調にするために理想化したプレーヤーを仮定している点では、昨日の記事は多少説得力を欠くものと言わざるを得ない。
 さて、これらの柔軟性のある廃人は、昨日私が挙げたようなグルーピー離れや嘲笑にもめげることはなく(酷い時にはその栄枯盛衰に気づく事すらしない)、もしくは思想を同じくする集団で固まり(オンラインゲームにはコミュニケーション以外の目的で結びつく集団もある)行動するため、世界の終焉を迎えたとしてもそう言った(現実的視点から見れば)特殊コミュニティの存続によって(これにもインスタントメッセンジャの存在が不可欠ではあるのだが)別世界への集団輪廻転生を果たす事が出来る。死によって永続性の孤独を得るどころか、転生を見事に果たす事によって転生先ではもっと大きな事を成し遂げられる可能性だってあるのだ。これが現実世界の終焉とオンラインゲームの世界の終焉の大きな違いだ。オンラインゲームには多くの種類があり、操作にしても多種多様ではあるが、これらの廃人は元やっていたオンラインゲームの特性を100%といっていいくらい理解していた者達である。多少勝手は変わろうと、そこで培ったノウハウの全てを切り捨てなければならないオンラインゲームなど、彼らの前には、無い。ともすれば最初の世界ではなれなかった(もしくは維持出来なかった)トッププレーヤーの座に君臨することも夢ではないのである。そういった『廃人』はもはや特定の世界の家畜とは呼べない。多世界を移動しうる、という意味で高次の家畜である。あに頭角を現さんや。
 また、このような転生を果たさないのだとしても、そこで手に入れた思い出は、スクリーンショットやチャットログなどで半永久的に残す事が出来る。そういった思い出によって培った精神的な何かを現実世界の言動にフィードバックすることは出来るかもしれない。転生廃人や、昨日の記事のような現実でのリンクを果たそうとしている人々に比べるとあからさまにそれは弱いかもしれないが、これを『何も残らない』とするのは大きな誤謬をはらんでいるために補足をしておく。
 現実世界にせよネットゲームにせよ、昨日は今日に密接にリンクをし、さらに今日は明日にリンクすることで『現在』を形作っていくのである。これは当然『在りし世界の不滅性』というものを孕んでおり、さらにこれは何も残らないと思われた彼ら『廃人』の『不滅性』をも示唆している。そのまま新しい世界に行くにせよ、行かないにせよ、彼らの辿ってきた道と、彼ら自身は、すでにして『不滅の現実』と言えるのである。