人間のデザインセンスを超えている
と、私が言いました(笑)
みちアキの人にひげぴんくなるお方のお話を聞き、ページを紹介して貰ったときにメッセでポロリと言った言葉ですね。まさかこんなものがタイトルになるとは思いませんでした。QTN*1。
さて、コレに関して今更底のほうから勉強してさらって書こうという気はさらさらないのでぱっと見の感じとみちアキの人の文章を微妙に引用しつつ展開して行こうと思います。
転載の是非云々についてはぼくは正直どうでもいいです。ぼくはみちアキなのだから、もちろん引っ掛かってくるのは“善意”の部分になります。実際には善意からじゃない(ということがミエミエだ)としても、「自殺するな」という訴えを広める行為自体は「善いこと」だから批判しにくいのだよな。偽善も善のうちみたいな。
色々言及したい部分はありますが、まずは『ぼくはみちアキなのだから』ですね。ワラタ
さて、「自殺するな」という訴えを広める行為自体は「善いこと」と言う書き方は非常にうまいですね。
どうにかこうにかこれに反論したいなと思って頭を捻りましたがなかなか出てきません。
わかりやすくシミュレーションするなら、クラスの学級会で
A「自殺するのはよくないことだと思います。友達同士でお互い助け合って、みんなが楽しいと思える学校生活を送れるように、みんなで努力するべきだと思います」
わぁー、ぱちぱちぱちぱち
B「いやそのりくつはおかしい。ある一部の人にとっては、生きているということに袋小路が存在するというのは避け得ない事であり、A君の言っているようなことはあり得べからざることである、と強く不信を抱いていて、彼を自殺へと導くものを誰にも止める事は出来ないしまたするべきではない。かのハムレットでも言われてるように、生きる、死ぬ、というのは究極の問題である。問題であるということはそこに選択の自由があるということだ。倫理や宗教、感情論をもってしてその自由を阻害してはならないのではないだろうか?最終的に自殺するしないは彼が決める事であり、1ミリたりとも我々が干渉すべきではない」
しーん………ざわ・・・ざわ・・・
まぁ、極端にやればこんな感じになるでしょうか。
そうなるとみんな本音はどうあれ、積極的にA君派につくであろうと思われます。何故なら、特に小学校中学校段階において、いくら前提として考慮することを制限されても、どうしても頭の中に既成倫理と集団意識が跋扈し、B君の意見を擁護することを本能的に拒否するからなのです。
「死ぬ事を止める」「自殺を止める」
実際問題それをそこまで「善いこと」だと思っているのならば、どうしていじめに走ったりそれを看過したりしましょうや。
彼らにとってそれは基本的に無関心な事であり、それを問われた時にのみ諸手をあげて『Yes』と叫ぶのです。それは集団意識やその中の『常識』への損得勘定を考慮した服従なのであって、善の肯定であることは恐らく稀と言えるでしょう。
だからといって、それを敷衍させることを「悪いこと」とは誰も言えないのです。
「倫理や常識に捕らわれず無関心であるだの悪であるだの言う者。それこそが悪だ!」
言葉にすりゃむちゃくちゃですが、これが自殺否定についての極論です。
「自殺をするな」というふれこみを「善意」としてであろうがなんであろうが広めたとき、それは上記の理由から自殺否定論の沸騰に繋がりやすく、それが悪いことかと言われれば何ら悪い事ではないからです。ノイジィマイノリティやらサイレントマジョリティやら小じゃれた言葉がなにやら流行ってるようですが、ぶっちゃけ一番強いのってノイジィマジョリティなんですから。
それによって自殺が止まる事が、善い事かどうかは、また、別の話。
*1:きゅうにたいとるになったので